三保町の歴史

三保町は歴史ある町

三保杉沢古墳
横浜市緑区十日市場泣坂上の東側に古墳4基の北門(ほっかど)古墳群があり、円筒ハニワと人物ハニワが発見されたが、更に北門古墳の東南約2㎞の所にあった三保杉沢古墳からも円筒、人物、馬のハニワが発見された。場所は三保町1359付近で三保小学校からフォレストパークにかけてあった前方後円墳だが、マンション建設時に消滅している。

榎下城址
𦾔城寺のある場所は、昔、榎下城があったところです。榎下城は、上杉憲清が築いたと伝えられ、自然の丘陵地を利用し、本丸は一段高いところに位置し、内外には空堀をめぐらし、さらに土を盛って土塁を築き、大手口には侵入者をまっすぐ城内に入れないため喰い違いの虎口という独特な土塁を築いています。また東側の堀は谷を利用して箱堀となっています。
上杉憲清の子憲直が永享の乱(1438年)に足利持氏に加担し、敗れて金沢称名寺で自決して以来、城主については不明ですが、小田原北条市の時代にも小机衆の拠る小机城に対して出城の役目を果たしていたとも考えられます。       (横浜市教育委員会文化財課の説明版による)

奮城寺(きゅうじょうじ)
このお寺は、榎下城の城跡に建てられました。

榎下城 室町時代初期(1400年ころ)掃部助武蔵国司(そうぶのすけむさしのくにこくし)上杉憲清(うえすぎのりきよ)が築き、憲清の三男で淡路守鶴岡総奉行憲直(あわじのかみつるがおかそうぶぎょうのりなお)が永享の乱(えいきょうのらん)で金沢称名寺(かなざわしょうみょうじ)で自害するまでここに住んでいました。永享2年(1439年)頃までと思われます。
その後廃城となりましたが、小机城初代城主北条景虎(ほうじょうかげとら)が、廃城となった榎下城を新たに取り立て、築城を行い久保城と称しました。城主は山田右京之進(やまだうきょうのしん)と伝えられています。
奮城寺 久保城廃城の後、久保村の長、佐藤小左衛門という人が、ここに住んでいました。佐藤小左衛門は、遺言で、「この地にお寺を建立し、菩提をとむらって下さい。」と言い残しました。子どもたちは遺言に従って、鳥山二会寺の住職園海僧都(えんかいそうず)にお願いし、末寺として頂き、久保山讐王院菖城寺(くぼさんいおういんきゅうじょうじ)が開山しました。慶長8年頃といわれています。 1600年代はじめ。菖城寺は、現在 高祖弘法大師の教えのもと、和歌山県高野山金剛峯寺を総本山とする、高野山真言宗に所属しています。
本尊様は、金剛界大日如来。脇佛として、不動、愛染明王、弘法大師などが、まつられています。

薬師堂iやくしどう)もと、三保町大上2593番地に堂宇がありました。
昔(室町時代初期とおもわれます)、久保村に悪性の眼病が流行し、村民は大変難儀しました。そこで、久保村の長が、病気を平癒(へいゆ)するために、薬師如来の仏像を安置し,ここに祀りました。大変、効果があり、多くの患者が、救われたそうです。この薬師如来は、目のない仏様で、全国でも珍しい仏様です。
享保11年(1726)年、この菖城寺に、移転しました。
秘仏であり、武相寅歳薬師如来霊場第壱番札所で、 12年に一度の寅歳春に開扉します。
25霊場があります。寛政6甲寅歳(1794年)に最初の武相寅歳薬師如来霊場の開扉
が行われました。

高野山真言宗 舊城寺

 

杉山神社
今からおよそ580年前の室町時代初期、足利持氏の側近であった上杉憲清の子、上杉憲直が榎下城の鬼門徐けのため当時榎下郷の中心部であった土地に社を建て、日本武尊を勧請して城の守護神として仰いだのが杉山神社の初めであると郷土史研究家、苅谷定吉は著書
「三保町杉山神社誌」の中で推定しています。またある由緒の書類では、「久保村(現三保町)の杉山神社は、慶長九辰年(1604年)の分郷まで八ケ村の総鎮守なり」とあり、更に宝暦十二年(1762年)の村絵図には現在地に相当する所に杉山大明神の記載もありました。
その後政府の政策により、いろいろな変遷がありましたが、明治後半に村に一社として整理されることになり、字天神前の天満宮、杉沢の神明社、同伊勢宮、稲荷谷の稲荷社(十二天社)、宮根の神明社を杉山神社に合祀して昭和二十八年杉山神社は、神社本庁を包括団体とする宗教法人として発足しました。                (三保杉山神社造営記念誌による)